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踊りカラクリ語りで
パフォーマンスを行っている者です。

映像制作、日本舞踊や小さな物語を
書いたりしています。

記事一覧(21)

アニミズムや神道にみる共に生きる知恵と作品

今日は自分の頭のメモをご紹介。私の作品傾向について思うことを纏めてみる。たまたま自分が関わる物語(古事記やアイヌの梟様や龍もそうだね)が自然に由来されるためか『共に生きる(共存、共生)』といった感性が含まれてることが多い。文献なども読むと、この感性は日本の穏やかな天候や土地柄による影響だと書いてあったのを覚えている。一神教と対にされやすい八百万の神々だが、一つ一つに神が宿り種別を超え大事にする心意気は平安への願いと祈りを感じる。(一神教が全てそのような感性を持っていないといっている訳ではありませんのであしからず)それは人に対して接する感覚も同じで、ただそこに在るだけでも共に生きている意識はずっとある。この『共に生きる』という感性が作品に根強く在ることが私の生きる誇りだなって思うことがあった。人の作品に足を踏み入れたり、観たりすると何処かそれとは真逆なものに出会うことがある。権力や上下を感じる世界(パワーがあって人を魅了するのは確かなんだけれど)をテーマにされたもの。分かりやすい反面、強い感性に驚き、どこかで恐怖を感じる。誰でも持っている心の断片だし、私にだって在る。ただどこかで支配者のある世界を欲していない自分がいる。誰かに支配されることも、自分が誰かの支配者になることも。自分の心の会話でさえ、そうならないといいなと願う。平等という言葉はバランスが悪い。個々と団が共にある世界を言葉に書き表すのは難しい。今まで話したこと、実はプロジェクションの舞台にも言えることだ。繋がってくる。『人間』と『アニメーション(機械)』の融合とは簡単に言えるがそれは『共存』が基本になっている気がする。『アニメーション』に命を吹き込むクリエイターは映像に魂を宿す。それと踊るのが『人間』他の要素だって欠かせない。『音楽』『舞台の場所』『観客』と相まって一つになる。一つになった音色を、私達はなんて呼ぶようになるんだろう。まだ未知の領域かもしれない。ある意味たくさんの魂とセッションしてるみたいだ。要はバランスといえばバランスだけれど、その調整に使われるキーワードは『共存、共生』誰かが主役? 誰もが主役。誇りを持てる作品ってそういうものなんじゃないか。そこから生まれる活かすための知恵や理想が、願いが、そして祈りが私の作品や演出の基盤になっていたら嬉しいなと思う。また新しい作品も。これからの作品も。

近状報告

久々に独りガタリの方に顔を出しました。最近はちびちび制作しているのですが、表に出せないことが多かったので少しずつプライベートの話も交えて書いていけたらなぁなんて思います。体調の方はというと、相変わらず小康を保っている感じです。ここに書くのは初めてなのですが一年半前から喘息持ちになってしまい、自分の体調管理の酷さや脆さを実感しております。当初、喘息だと発想がいかず風邪が治らないなぁ‥全く良くならない。と病院を転々。どんどんバランスが崩れて行くわけで。分かってからもどう付き合っていいのか悪戦苦闘の連続でした。もひとつ今年5月に肋骨を殴打し骨折の診断。鎮痛剤を飲んでいようが、息をするのも寝返りも痛いと散々な日々を絶賛過ごしております。ただこの痛みを通して自分を振り返るとともに、怒りややるせなさといった感情がどれだけのものかを文字通り痛感しました。転んでもただじゃ起きたくないですから。いつか落ち着いたらこの件についても書ける日が来るのかな。痛みの具現化についてですね。これもあり制作はゆっくりゆっくり構想練りに逆戻り。ですが少しずつ夏に向けてよくなる兆しも出てきているので今はそれを心待ちにしながら、休み休みやっていこうと思います。皆様も5月といえ底冷えする天気の日もありますので、ご自愛くださいませ。國立

北海道で学んだ、食とは

守衛さんとの会話の後北海道の親戚の皆様に会いにいきました。北海道の人たちって暖かいというか、土地に誇りを持っている方が多いのでしょうか?急にきたのにも関わらず、アットホームに「よくきたね!!何食べたい?!」と質問攻めにされました。一番最初の質問に「何食べたい?」って面白いですよね。私は食に対しては口に入れて生きれればいいぐらいのスタンスだったので、この質問にたじたじでした。すると親戚「食べたいものないの??美味しいもの食べなきゃ損だよー。欲がないのも問題だよー」國立「そうなんですか?」親戚「だって、生きてるんだから。細っこいよー。太って帰りな。肉にしよう」國立「えっあはい」親戚「肉好き?」國立「はい好き、です」とジンギスカンと決まると親戚一同がどこが美味しいかで話し合い。うまく集結してジンギスカンのお店へ。そこでまた親戚「ねぇねぇ、海の幸好き?食べない?食べよっか!」國立「は‥はいっ」と、ジンギスカンのお店で予期せぬお刺身やホタテやカニをたらふく食べました。みんな美味しそうに食べてて、話したり笑ったり。みているだけでも幸せになるような気持ちでした。それなのに、こっちの箸が少しでも止まると親戚「遠慮してない?もっと、頼んでいいんだからね?」と食に対してこっちがキャパオーバーするくらいおもてなしをされまして、参ってしまいました。お店を出て、お家にお邪魔してもその後にまた宴会。日本酒片手に、お酒のおつまみにお刺身。語らいが絶えない。お客さんが泊まるためとはいえ、自分たちも一緒にそれを楽しめるようにお持て成しをする。(本当にすごい人たちだなぁ。都会にはなかなかない空気だ)一人一人が情の塊というのでしょうか?生きるエネルギーや逞しさに溢れていて自分には無い魅力にすごく惹かれました。どうしても気になって宴会中に何故、こんなによくしてくれるのか?と聞いたんです。「そりゃ、北海道を味わってほしいし、美味しい〜って言ってる顔がみたいの」と簡単のようで難しい答えが返ってきました。共有する喜びなんでしょうか。北海道は山の幸も海の幸も自然の豊かさ、食文化はピカイチですからこの幸せをすごく味わってほしいのだと言っておりました。都会っ子の私というかは土地柄というか民族性を感じてしまいました。この幸せを分けて、灯る暖かさこそ生きる力なのかなぁって。食も結局はその一つの表現なのかも知れない。どんな物事にもいい悪いあると思うのですが食に対する意識や考え方が少し変わった國立でした。

プロジェクションは幻想

さて、そろそろ独り言らしきことを語ろうかなと思います。踊りカラクリ語りのカラクリの部分、そして現代ではおなじみのプロジェクター。プロジェクターで、絵を映し出す技法をプロジェクションと言いまして。私はこれを舞台の大道具の代わりをさせているのです。最近では平昌オリンピックでも大活躍で、舞台装置としてももう当たり前のような時代になった。私にとってプロジェクションとはですね。『幻想』なんです。え?幻想って当たり前じゃない?そう思った方。多分、いい意味に捉えていらっしゃるんじゃないかな。なんでも表現できる、幻想。でも、一見素晴らしい幻想って実は恐ろしくはないでしょうか?映像関係、VR(バーチャルリアリティ)といった仮想現実も現実に近くなるご時世ですが。私は、幻想の恐ろしさについてちょっと語ると、全て手に入れたようで全てを手放している世界だと断言できるので怖くなります。視覚、聴覚はもう奪われてないでしょうか?画面の奥に。五感を奪われた人間が出来上がるのは恐ろしくないですか?そんな世界を味わう部分が、プロジェクションにもあります。舞台上で映像を受け止めている時まさに「孤独の瞬間」その孤独の瞬間を感じるたびに、「ああ、なんて切なくもこの世で生きるための全てが大事だろう」とふと頭をよぎるのです。ご飯の味覚、手の温もり、花の香り自分の目で感じる自然、愛を思い出す言葉の息全てを持っていなくても、何か一つでもこの世に存在している実感があることが本当は命を持つ身の上で特別だと言われてるような気がして。私はプロジェクターを使い、語るけれど決してこのことだけは忘れたくないなといつも肝に命じてます。